いい旅たびたび  シンガポール

この食事のあとで、体調がおかしくなった人がいました。
料理は基本的に中華料理でしたので、全品、火がとおって
いましたので、料理が原因ではなさそうです。水の代わりに
ビールを飲んでいた小生は無事でした。

一旦、ホテルに戻り、小休止。夕食に屋台村(町のいたるところに衛生的な

ホーカーズ(フードコート、屋台を一箇所にまとめたような施設)があり、安くておいしい

地元料理を堪能することができる。)に出かける。

1981.12.26

海老、蟹などの海鮮料理

第2日目

その5

ホテルのタオルを首に巻いて

ロブスターに大満足なK氏

墓碑の前で記念写真(地元の子供が紛れ込みました。)

日本人墓地とニュートンサーカス

二葉亭四迷について

1864年2月28日、江戸市谷の尾張藩上屋敷に生まれる。本名長谷川辰之助。父、吉数は江戸詰の尾張藩士。4歳の時、諸藩江戸引きはらいで名古屋に移り、名古屋で士族としての教育を受ける。

 14歳の時、ロシア脅威論に刺激され、陸軍士官学校を志望する。上京し、いくつもの塾に通い、士官学校を三度受験するが、三度とも不合格に終わる。1881年、次善の策として、東京外国語学校露語科に入学する。

 ロシア問題の専門家として大阪朝日新聞に入社するが、新聞の求めるようなセンセーショナルが記事が書けず、一時は退職を勧告されるが、小説家としての才能に注目した東京朝日新聞の主筆、池辺三山のはからいで、東京朝日に移籍。1906年、仕方なく『其面影』を連載するが、好評をもってむかえられ、翌年の『平凡』の連載につながる。在ペテルブルク駐在員を志願し、1908年6月、ロシアに向かう。

 翌年、結核になり、海路、日本に向かうが、5月10日、ベンガル湾航行中に死去。シンガポールで火葬にふされ日本人墓地に埋葬される。45歳だった。

 旅行のメンバーに3人の文学関係の方がみえて、特別にここを周回コースに入れました。

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100109復元

チップを弾んで、もらってきたメニューです。